Henze: Violin Concerto No. 2 & Il Vitalino raddoppiato Henze: Violin Concerto No. 2 & Il Vitalino raddoppiato
ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ

Naxos

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ヘンツェ イル・ヴィタリーノ・ラッドッピアート


ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ(1926-2012)は、ドイツの近現代を代表する作曲家で、数多くのオペラやオーケストラ作品などを残している。特に、当時革新的であった十二音技法や無調などの技法と、伝統的・保守的な音楽との、ちょうど中間の様式を採用した作品が多く、今回取り上げる曲もまさにその作風が色濃く反映されている作品だ。
CDジャーナルのレビューで「有名なヴィターリのシャコンヌを原型から徐々に現代書法やヴァイオリン技法の中に折りたたんで変容させようという趣向」と書いてあるのを見て、もうこれ以上簡潔にまとめることはできないなあと困ってしまったが、まあ本当にそういう曲である。1977年に作られた、独奏ヴァイオリンとオーケストラのための協奏的作品で、30分弱の単一楽章の曲。
僕は別段ヘンツェという作曲家に詳しいわけでもなんでもなく、たまたま2016年のベルリン・ムジークフェストでのライブ、イヴァン・フィッシャー指揮ベルリン・コンツェルトハウス管とユリア・フィッシャーのヴァイオリン独奏による演奏の放送を聴いて、こんな良い曲があるのかと感動したので、ぜひ紹介したいと思った次第だ。
作品のタイトル「イル・ヴィタリーノ・ラッドッピアート」(Il Vitalino Raddoppiato)とは、「倍増したヴィターリ」という意味。変奏曲風の協奏曲というと、ラフマニノフのパガニーニの主題による狂詩曲なんかを思い出すが、あんな感じにひたすら美しいヴァリエーションが並ぶのではなく、ときに悍ましく八つ裂きにされ、醜悪な姿にされることもある。NAXOSのCD帯では「原曲がどんどん陵辱され、どろどろに形を変えていく」との言われようである。何より、ただの変奏ではなく、「倍増した」というところがキモである。


「ヴィターリのシャコンヌ」は、ヴァイオリンを弾く人には有名な作品だが、そうでないクラシック音楽ファンだと意外と知らない人もいるかもしれない。そういう方は手初めに、1950年のハイフェッツの怪演に触れていただきたい。クラシック演奏史に残る20世紀前半の怪演と言えるだろう。
こちらの原曲は17~18世紀に活躍したヴァイオリニスト、トマソ・ヴィターリのものとされ、バッハのシャコンヌと並んでヴァイオリン界の名シャコンヌとして知られる。最初にこの曲を世に送り出したのは、フェルディナント・ダヴィッドという19世紀のヴァイオリニストである。彼はライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のコンサートマスターであり、メンデルスゾーンがかの有名なヴァイオリン協奏曲を献呈した相手だ。
卓越した技巧を持っていたダヴィッドは、フリッツ・クライスラーよろしく(記事はこちら)幾つかの偽作も残しており、ヴィターリのシャコンヌも実はダヴィッドの作なのではないかと言われている。


だから、ヘンツェのこの作品の面白いところは、そもそもダヴィッドというロマン派時代の奏者が、今で言うところの「盛った」作品であるヴィターリのシャコンヌを、さらに「盛りに盛って」増幅させているところである。ヘンツェの抱く19世紀ライプツィヒのロマンティック・ヴァイオリンへの愛とノスタルジア、そして1970年代後半、ピリオド演奏も盛んになりつつある「ポスト・ハイフェッツ」時代のヴァイオリニズムも加わって、どんどん増幅していくシャコンヌ。シャコンヌそのものも、変奏して自己肥大化していく性質の音楽だが、これはまさに「シャコンヌを踊るシャコンヌ」状態の音楽だ。
G音の序奏に続き、ハープ伴奏に乗って現れるヴァイオリンの主題。作曲者いわく、ハープシコード代わりのハープだそう。基本的に、ダヴィッドの残したシャコンヌと全く同じ独奏ヴァイオリンである。
変奏は、大胆で劇的な転調を用い、どこを取っても聴き飽きない楽しさがある。オケ伴奏が変ロ短調へシフトチェンジした直後の、独奏チェロとの掛け合いも美しい。徐々に決められたレールからはみ出して行く様は、ヴァイオリンの、いや音楽の歴史そのものを想起させる。
原曲もベースラインは通奏低音であり、オーケストラ伴奏は同じコードを繰り返す。耳に残るオスティナート。聴く者の頭の中で鳴り続けるその残響を借りて、その上に乗った演奏家がハチャメチャなバリエーションを展開するのだ。
最後にはカデンツァ風のヴァイオリン・ソロもある。NAXOSの帯は「奇妙な世界観」と評しているが、確かにここだけ取り出したら、絶対だたの変な音の並びにしか聴こえないだろう。しかし、聴きながら、元の主題を必死に探し求めてしまう自分に気づいた。しかも、このデタラメのように聞こえるカデンツァ、案外聴いていると元のシャコンヌの姿を見つけてしまうのだ。これはちょっと自分でもびっくりする。


30分弱あるが全く冗長とも感じない。NAXOS盤で同時に収録されているヴァイオリン協奏曲第2番の方が、なかなかキレッキレの作品なので、インターネット上でもそちらのレビューがメインになってしまい、こちらのイル・ヴィタリーノはおまけ扱いなのが少し悔しいところだ。ぜひここで猛プッシュしておきたい。
思うに、倍増するヴィターリ、クラシック音楽の宿命みたいなものだろうか。現代の演奏だって、ピリオド奏法でない限り、クラシックは元の曲の形を留めずに増幅されたものに違いない。それでもヴィターリの旋律は耳に残る。ときに無理矢理な増幅も、本質を語り継ぐ上で必要なものかもしれない。作曲でも、演奏でも。