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若きレオン・フライシャー(左)とジョージ・セル(右)


【名盤への勧誘】ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 作品73「皇帝」
レオン・フライシャー(p)、ジョージ・セル/クリーヴランド管(1961年3月)


【名盤への勧誘】と冠して、今まで珠玉の名曲を取り上げてきたこのブログで、今度からは名盤・名演についてのエッセイも投稿していこう。ということで、1回目から、前書いた文章の焼き直しという手抜きっぷりだが、そこはご容赦願いたい。どれが名盤かなんて、結局は人の好み次第だけれど、僕が個人的に「これは大いに聴く価値がある!」「これなら買っても損はしない!」と思ったものを選んで書いていくつもりだ。名盤・名演の具体的な解説ではなく、それらについての適当なエッセイですので、そこはあしからず。これからまた気の向くままに、色々な名曲・名盤・名演を取り上げよう。


ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」は、僕の大好きなピアノ協奏曲で、このブログ(開始当時はFC2だった)で最初に取り上げた楽曲である(記事のページはこちら)。ブログを始めたのが2008年、まだまだ文章力も低く、知識も浅く、内容も大して充実していない記事で、「今ならもっと色々なことが書けるし、付け足したいなあ」なんて思うこともあるが、なんとなく記念として、はじめに書いたときのままで残している。ということで、そちらの方を追記しない代わりに、「皇帝」の名盤について語ろう。


オススメの名盤はこちら。

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番、第5番
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ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 作品73「皇帝」
レオン・フライシャー(p)、ジョージ・セル/クリーヴランド管(1961年3月)


レオン・フライシャーというピアニストも、ジョージ・セルという指揮者も、どちらも非常に几帳面な音楽作りをするアーティストである。セルは特に厳格な音楽性で知られている。ラインスドルフの後を継いでクリーヴランド管弦楽団の常任に任命されると、軍隊のような訓練でオケを鍛え上げ、世界トップの演奏技術の高さまで引き上げたという逸話は真実である。また、セル自身が幼い頃からピアノの神童と言われ、3才からウィーン音楽院で学び11才で自作曲を引っさげてデビューするくらいであり、そういう点でも共演するピアニストにはかなり厳しい目を持っていたはずである。この「皇帝」の録音は、セルが66才、フライシャーが36才の頃のもの。フライシャーもきっと緊張したことだろう。それが功を奏したかどうか知らないが、とにかく気を張っている演奏であり、どこにも隙がない。室内楽のように親密な雰囲気を醸し出す場面もあれば、壮大でシンフォニックな響きを聞かせる場面もあるが、そのどちらも、どんな場面でも、とにかく統制されており、絶妙に整えられている。


固すぎる、というのはセルの音楽の特徴かもしれないが、フライシャーのピアノもまた同様に、良く言えば堅実、悪く言えば色気がない。その点、お互いに目指す音楽の方向性が一致しているように思う。しかし普通、協奏曲というジャンルは、ソリストが目立つように作られているものだし、ソリストは当然自分が目立つように演奏する。そのためには、ソリストはどこでどう自分のヴィルトゥオージを発揮するかを画策する訳である。目にもとまらぬ超絶技巧を見せる曲・演奏家もあれば、まるで自分が世界の中心にいるかのように、恍惚とする歌を聴かせる曲・演奏家もいる。ソリストの存在感を前面に押し出すためには、どこでどのように自分らしさを出すか、つまり他との差別化を図るかが重要になる。例えば、ドイツの巨匠バリトン歌手、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウは、シューベルトを歌う際、伴奏をするリヒテルに、ピアノが少し遅目に入るように要求したそうだ。リヒテルは大変苦労したそうだが、F=ディースカウはリヒテルならできると見込んでの頼みなのだろう。良い相方を探すのも重要ということだ。

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リヒテルとフィッシャー=ディースカウ


少し話が逸れてしまったが、ではフライシャーのピアノはどうかと言えば、協奏曲のソリストとして目立ってやろう、オレが魅せてやろう、といった意気込みのようなものを、ほとんど感じないのだ。固い演奏と言ったが、ロマンチックでうっとりするような音の揺らぎが本当に少ない。そういう瞬間があるのは、むしろ何か必要に応じて、義務感でやっているようにすら感じる。


フライシャーは「目立つのは自分ではなく、ベートーヴェンである」と考えていたのではないだろうか。もちろん、どんな演奏家・指揮者でも、作曲家が残した楽譜を基に、その意思を最大限尊重して音楽をしていると思うが、そのためのアプローチの違いは様々あり、それがまた同曲異演を聴く楽しみでもある。マーラーやワインガルトナーのように、オリジナルの改訂をしてこそ真の意図が引き出されるのだとする指揮者もいるし、ヴァントがブルックナーの楽譜の版に徹底的にこだわっているように、残された楽譜こそバイブルだと信じて一切の手を加えないことで真の意図を探ろうとする指揮者もいる。だから、フライシャーがそのように思うのは、もしかするとごく普通のことのように思われるかもしれない。もちろん、ベートーヴェンのピアノ・ソナタを弾くときに、ベートーヴェンの意図を考えないで弾くというスタイルは、ほとんど見られないはずだ。しかし、「協奏曲」となるとどうだろうか。ソリストなら普通は、これは自分(ソロ楽器)のために書かれている作品だと考えるだろう。ロマン派の協奏曲はほとんどそうだし(ヴィルトゥオーゾ協奏曲についても以前このブログで取り上げた)、古典派だって基本的にはそうだ。つまり作曲家自身がソリストを務め、もちろん即興カデンツァも含めて、自らをアピールするような協奏曲がほとんどだったはずだ。しかし、音楽に革命を起こすベートーヴェンの、しかも最後のピアノ協奏曲となると、また話は違うようにも思う。


フライシャーとセルの「皇帝」を聴くと、まるで「ベートーヴェンは“ソロと伴奏”という協奏曲の既存の枠組みから脱出して、ピアノとオーケストラが合わさった有機体、形式を超えた一つの“音楽”を目指していたのだ!」と主張しているように聴こえる。ここにはピアノとオケの火花を散らすようなデッドヒートもなければ、そこのけそこのけと邁進するピアニストに黙々と尽くす伴奏もない。彼らの主張は正しいのだろうか。思えばベートーヴェンの交響曲は、交響曲の父ハイドンの形式から始まり、独自の革命を起こし続けて、最後に向かった先が、形式を超越した何でもありのまぜこぜ交響曲「第九」ではないか。ベートーヴェンを崇拝するブラームスのピアノ協奏曲が、協奏曲というよりもピアノ付きの交響曲のような作品になったのも、ブラームスはベートーヴェンの目指した協奏曲のあり方・方向性を追随したからかもしれない。第1協奏曲の作曲当時はあまり評判も良くなかったそうだが、ロマン派の、ソリストがキラキラと輝くような協奏曲が人気を博す中、初演を指揮したヨアヒムに「僕はただわが道を行くだけです」と手紙を送ったブラームス、この我が道を照らしていたのはベートーヴェンに他ならないだろう。

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「皇帝」がソリストが目立たない方が良い曲だとは、僕も微塵も思わない。冒頭のピアノの聴かせ方ひとつで、いかようにも人の心を打つ音楽になりえる曲である。ソリストがバリバリ見せる皇帝ももちろん好きだし、多くの解釈を受け入れる懐の深い作品であることは間違いない。ただフライシャーとセルの演奏は、もしかすると究極的にベートーヴェンの意図に忠実な演奏なのではないかと思わされた。僕は、音楽は作曲者の手を離れてからどうなるかが重要だと考えているし、作曲家が思いもよらないようなその曲の魅力を引き出すことのできる音楽家を尊敬しているが、またそれとは別に、フライシャーとセル/クリーヴランド管には畏敬の念を覚える。レオン・フライシャーはこの頃の一連のセルとの録音の後、局所性ジストニアを患って長く第一線から遠ざかってしまう。しかし、左手のピアニストとしての活動や指揮活動を経て、また新しい治療法に出会ってから、現役復帰も成し遂げた、気力のあるピアニストなのだ。フライシャーは大ピアニストであるアルトゥール・シュナーベルの弟子であり、シュナーベルの師はポーランドの巨匠レシェティツキ。レシェティツキはベートーヴェンに師事したあのツェルニーの弟子。そう考えると、フライシャーの演奏から、彼が一途に追い求め続けるベートーヴェンの意図を見出そうとするのも、そんなにおかしなことじゃないかな。なんてことを思い、書いてみた所存。

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲全集、モーツァルト:ピアノ協奏曲第25番
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