ベートーヴェン:交響曲第4番/交響曲第7番 ベートーヴェン:交響曲第4番/交響曲第7番
フルトヴェングラー(ウィルヘルム)/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団,ベートーヴェン,フルトヴェングラー(ウィルヘルム),ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

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ベートーヴェン 交響曲第7番 イ長調 作品92


もし、単純にCDをかけて「聴く」という点だけで言えば、ベートーヴェンの交響曲第7番は、ベートーヴェンのいわゆる「ベートーヴェンらしさ」を最も感じることのできる作品だと思う。もちろん、どの録音でもそうだ、とは言えない。しかし、いわゆる「ベートーヴェンらしさ」というものが何なのか、それは例えば彼の熱情ソナタを弾いたとき、あるいはヴァイオリン・ソナタを弾いたときに、奏者が感じることのできる特別な感情、胸に沸き起こるものを、演奏する側ではなく音楽を聴く側として体験したいなのら、この曲は最もオススメできる曲だ。
第3番はもちろん、第5番、第6番とベートーヴェンは新しい試みを常に取り入れ、革命的な音楽を創造してきた。そんなベートーヴェンが、伝統的手法に回帰して取り組んだ作品がこの第7番である。
「色々やったけど、結局こんな感じになりました!」というのが第7番と第8番であり、ある意味ベートーヴェンの交響曲の“集大成”なのだ。第九はというと、これも集大成であると言えばそうなのだが、これはまたひときわ異色なものだと考えている。
第7番が陽なら第8番が陰、というような、集大成としてはいわば派手な方の第7番は、万人にとって交響曲を聴く魅力があふれている。
よくこの曲の解説で言われるのは、ワーグナーがこの曲を「舞踏の神化」(Apotheose des Tanzes)と評したという話や、リズムが中心となって音楽が構成されているという話である。このワーグナーの評の意図はもちろん音楽史の流れの中で解釈しなければならないし、リズムが際立つ曲であることは紛うことなき事実である。しかし、そういう観点から語るだけでは、この交響曲が生み出す本当の芸術的価値は論ずることはできないだろう。
そもそも、この曲をあまり「リズム」という音楽の(それはそれは重要な)一要素で語ろうとするのは、どうもあまりよろしく無い気がするのである。というのも、ベートーヴェン以降の音楽に触れてよく親しんでいる現代人は、もっともっとリズミカルな音楽を知っているし、神格化しうるような舞踏・舞踏音楽を見つけられるからだ。


ではいったい、どのような点でこの曲を語りたいかというと、交響曲という形式で最も発揮されるベートーヴェンの異常なまでの精神力という点である。ベートーヴェンらしさとは、この精神力にほかならない。力であるからには、これには向きがあり、大きさがあり、他を動かし、影響を与えるものだ。音楽が起点となり、演奏する者の、聴く者の精神を動かすもののことだ。まあそれでも、まずは楽章ごとにこの曲がどのようになっているのか見てみよう。


1楽章の最初のトゥッティ強奏から、この演奏の大まかなベクトルが決まると言って良い。紳士的なもの、豪腕なもの、先鋭的なもの、様々な演奏が楽しめるだろう。のだめカンタービレで使われていたので印象に残っている人も多いかもしれない。
2楽章はワーグナーに「不滅のアレグレット」と評された、いわば緩徐楽章的な役割の音楽。ワーグナーだけではなく、日本の音楽学者、礒山雅が2楽章を評して言った、「ディオニュソス的生命力をもった楽章」という言葉も紹介しておこう。ヴォルフガング・オストホフという音楽史家は、このアレグレットには連祷の“Sancta Maria, ora pro nobis”(アヴェ・マリアの歌詞の一部)がアイデアとして関連しており、それゆえに葬送行進曲と呼ばれることを指摘している。「英雄」の2楽章との関連なども掘り下げれば面白いテーマだと思うし、この楽章は初演当時から人々を魅了してやまない。他の楽章が早いテンポ指定の中、アレグレットというのは遅めのテンポとなる。最近の演奏では、それほど遅いテンポでは演奏されないことが多い。ベートーヴェンの真意は「ゆっくりだが普通の緩徐楽章よりは早めに」というものだ、という解釈が先行していると思われる。
実際、遅過ぎない方がこの曲の肝であるリズムが生きるような気がする。そういう意味では解釈としては正しいのだろう。
第3楽章は、この曲の中ではあまり話題に登らないことが多いのだが、ABABA形式のスケルツォで、聴いていて実に楽しい楽章だ。こういう拡大されたABA形式は、弦楽四重奏をはじめ、当時のベートーヴェンの作風としてはよくあるものだった。オーストリアの古い巡礼の歌に基づくトリオがあり、この部分が静謐に演奏されると胸に来るものがある。アレグレットのアヴェ・マリアとの関連も気になるところだ。


3楽章までの概説を書いてみたが、この曲を語る上でよく使われる「リズム」「舞踏の神化」「葬送行進曲」「アレグレットというテンポ指定」という要素は、実に知的好奇心をくすぐるものばかりだし、とかく人はワーグナーの言葉や研究者の言葉に感化されてしまうものだ。だがしかし、これらのことは、この曲の最も大事な事ではないのだ。


熱狂の4楽章を聴いて欲しい。繰り返すリズムの狂喜乱舞。邁進する音の塊。僕は、様々な演奏に見られる終楽章の作り方に、音楽の素晴らしさを見たし、その中のいくつかの演奏には、音楽とは何たるものかという問いへの答えを示してもらったと思っている。
そう、静けさの中で熱く熱く燃える命の火の如く、永遠の「生」の広がりの中に音楽が存在するような、バーンスタインの演奏。楽章のテンポ設定やベートーヴェンの意図など、神格化された舞踏を「超越」して、信じがたい精神の高まりと人間の生命力を見せつけるフルトヴェングラーの演奏。これらを聴けば、彼らの音楽家としての偉大さ、またベートーヴェンの偉大さを痛感できるに違いない。


ベートーヴェンが楽譜に残した「力」は、人間の特異な精神力をもってして、あらゆる方向に突き進み広がりを見せる「音楽の力」になる。神はいない。いるのは人間だ。ベートーヴェンの交響曲では、これが真実だ。交響曲の真価とは、僕はここにあるのではないかと思うのだ。